東日本大震災の発生からきょうで15年。
あの日のことを忘れないように、当時のことを書きます。
当時、私は中学1年生でした。
3月11日午後2時46分、掃除が終わり教室に戻ったころでした。
突然大きな揺れがあり、机の下でその長い揺れがおさまるのを待っていました。
その後、急いで校庭に避難し、ただ待機する状況が続きました。
その間も何度も揺れを感じ、友人と
「あと何回地震がくるんだろうね」「いつ帰れるんだろうね」と話しながら身を寄せ合って待機していたのを覚えています。
まだ3月で寒かったので、一度教室に戻って
防寒着を取ろうということになりました。
学校に入ると、壁が崩れていたり、ひびが入っていたりしました。
ずっと校庭にいたので、この地震がどれだけ大きいもので、どれだけの被害をもたらしていたのか、この時はまだ知りませんでした。
それから校庭での待機が少し続きましたが、
暗くなる前に帰宅することになりました。
友人と歩いて帰る途中、信号は消えていて、停電していることを知りました。
信号はついていなくても、車が道を譲り合っているのを見て驚きました。
家に帰ると、母が家中に散乱したものを片付けていました。
自宅は、壁紙が破れるなどしましたが、幸いにも大きな被害はありませんでした。
停電でテレビは見られず、夜はろうそくをつけていたことは覚えています。
なんだか不安で、ウォークマンで音楽を聴いて気持ちを落ち着かせました。
当時、6つ上の姉は大学生になったばかりで東京にいました。
次の日の朝、連絡がつきやすいと聞いていた公衆電話で姉に電話したら、連絡がついてホッとしました。
そのあと、食料を備蓄しようと、スーパーに行きました。
行く途中、ガソリンスタンドには長蛇の列ができていました。
スーパーにも多くの人が訪れていて、レジは使えず、店員さんがひとつひとつ値段を手打ちして計算していて大変そうでした。
そこから電気が復旧し、テレビで津波の映像を見たときは衝撃でした。
また、実際に津波によって大きな漁船が陸に上がっている様子や魚市場に流れ込んだ土砂を水で洗い流す人の姿を見ました。
休みの日にはよく海を見に祖父母と行っていた館鼻岸壁の大きく変わった姿に言葉が出ませんでした。
この災害を機に、きちんと防災について考えるようになりました。
あれから15年が経ち、去年12月には青森県東方沖地震も発生。
地元が再び大きな被害に見舞われました。
震度6強という文字を見た時は恐怖と不安で手が震えました。
東日本大震災でも、青森県東方沖地震でも、
様々な避難の課題などが明らかになっています。
それを教訓とすることで、これからの未来を良い方向に変えられるように
私たちはこれからも防災について伝え続けたいと思います。
当時の状況をただ長々と書いてしまいました・・・。
最後まで読んでいただきありがとうございました。